瞑想インストラクターの資格を取得するために独学したことは前回お伝えした通りですが、マインドフルネスに関する本を読み続ける中で、実は自分自身でも驚くような発見があったので、ここでご紹介させてください。
既にどなたかがとっくに気付かれて書かれているようでしたら、浅学ゆえの戯言としてご容赦ください。
まずは「マインドフルネス」についてですが、ここでは「今この瞬間の体験に、判断を加えることなく注意を向けること」と定義します。
釈尊が繰り返し説いた「不放逸(パーリ語でapramāda)」という言葉が現代語に訳し難いというのは、過去にブログでお伝えした通りです。
NHKの人気バラエティ番組「チコちゃんに叱られる!」で、チコちゃんが質問に答えられなかった出演者を𠮟りつけるときに用いる決めゼリフ「ボーっと生きてんじゃねーよ!」が、個人的に一番しっくりくるとも記しましたが、不放逸とはまさに「マインドフルネス」の状態を指していると思われます。
岩波仏教辞典で「放逸」は「なまけること、怠惰、心が散漫となり善行に専心できないこと」と説明され、「不放逸」はその反対語として「怠まないこと」「励むこと」「勤勉」などと置き換えられることが多いのですが、これは少し違うのではないかという気がします。
そして、ここからは少し飛躍しますが、「不放逸=マインドフルネス」が常時続くのが、「悟り」であり、「解脱した状態」と言えるのではないでしょうか。
逆に言えば、マインドフルネスとは悟りの光が一時的に現れた状態です。
道元禅師は「普勧坐禅儀」で「いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり(ここで説くところの坐禅は悟るための禅定修行ではない。ただこれは安楽の教えであり、悟りを究め尽くしている修行であり、実証である)」と語り、「坐禅は悟りを得るための修行ではない。坐禅そのものが悟りである」と明言しています。
ほかにも「辯道話」で「修証は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には修証これ一等なり(修行とその実証が一つでないと思っているのは、とりもなおさず、外道の考えである。仏教では、修行とその実証はまったく同じ一つのことである)」などと「修証一等(修行と悟りは同一のものである)」を説いていますが、私には「坐禅=悟り」「修行=悟り」という考え方がどうしても実感として理解できず、道元禅師の著述でよく見られる逆説的な表現なのではないか、とまで勘繰っていました。
ここでマインドフルネスこそが悟りの入口であると考えると、「坐禅そのものが悟りである」という道元禅師の思想が、実にすんなりと納得できるのです。
私が原始仏教の勉強から曹洞宗の僧侶の道へと進んだことは、これまでこのブログで長々とお伝えした通りですが、(大変オーバーですが)ここにきて真っすぐ一本につながったような気がしてなりません。
このテーマに関しては今後も勉強を重ねながら拙い文章にまとめていきたいと考えています。
※マインドフルネスが不放逸と同じであるというのは、最近読んだ「現代「只管打坐」講義」(藤田一照著、佼成出版社)に書かれていました。不勉強でお恥ずかしいです。