マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想、坐禅の違いについて、あらためて考えてみたいと思います。
マインドフルネスは、もともと上座部仏教が用いるパーリ語仏典における「sati(サティ、念、気づき)」を英訳した言葉です。
マインドフルネスが興隆する前段階として、タイの上座部仏教の僧侶アーチャン・チャー(1918~1992年)と、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン(1926~2022年)の活躍による、気づきを重視したヴィパッナー瞑想の普及があります。
そして、アーチャン・チャーの弟子が米国で組織した「インサイト・メディテーション」という瞑想団体に所属していたジョン・カバット・ジン(1944年~)が、ヴィパッナー瞑想と西洋科学を融合させ、宗教色を排除した「マインドフルネス・ストレス低減法」を開発したことで、マインドフルネスが精神的な安定を得る手段として、米国などで爆発的に広まる結果となりました。
宗教色を排除したといっても、マインドフルネスの入門書の中には、慈悲の瞑想(パーリ語仏典の慈経に出てくる「生きとし生けるものが幸せでありますように」などのフレーズを唱える瞑想)を推奨しているものもあり、マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想の境界は曖昧であるといっていいでしょう。
次にマインドフルネスと坐禅の作法の違いを見てみます。
坐禅の基本姿勢は結跏趺坐、あるい半跏趺坐ですが、難しい場合は椅子に座ったままでも問題ないとされます。
マインドフルネスが眼を閉じて行うのに対し、坐禅では眼を自然に開いて視線を1メートルほど先に落とすのが正しいとされますが、道元禅師の師である如浄は「宝慶記」の中で「居眠りをしない者は目を閉じて坐禅してもよい」と語っているので、これも根本的なものではないでしょう。
大きな違いは頭に浮かんだ雑念への対処の仕方です。
坐禅では「雑念にとらわれない」「姿勢を整え、呼吸を整えれば、心も自然に整う」と雑念そのものに対して否定的な考え方ですが、マインドフルネスでは雑念が次々と頭に浮かぶのは当たり前であると認め、ラベリングをして(雑念、妄想などと名前を付けて)深入りしないよう勧めています。
また、雑念が入らないよう、呼吸によってお腹が収縮するのに合わせて「膨らみ」「縮み」と実況中継するようアドバイスするなど、かなり親切です。
これは私には両者の違いというよりも、ブラックボックス的な坐禅がマインドフルネスを見習うべき点であるように思われます(この項続く)。