現代の日本の仏教界を揶揄する「葬式仏教」という言葉をご存じでしょうか。
この言葉には、僧侶は葬儀や法要を形式的に執り行うだけで、人々の救済や人生の指針の提供など、宗教本来の役目を果たさないという批判が込められています。
もともと原始仏教では、葬儀を執り行うことは出家者の役目ではありませんでした。
パーリ仏典の「大パリニッバーナ経」によると、死が間近に迫る中、弟子のアーナンダから葬儀のやり方を尋ねられた釈尊は「お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ」と述べ、在家の信者たちに任せるよう命じています。
インドで仏教が滅びたのに対し、日本で仏教が根付いたのは、通過儀礼と結びついたからだという指摘もありますが、葬儀や法事にしか僧侶の出番がないというのは、本末転倒でしょう。
最近読んだひろさちや氏の本に、葬式仏教を皮肉るこんなジョークが紹介されていました。
子供の不登校に悩む母親が、お寺の住職に相談に行った。
すると和尚が言った。「わしはナマモノは扱わんのじゃ。死体になったら持っておいで」
同じ仏教に携わる身として、まったく笑えない話です。
私が子供のころ、つまり今から半世紀前になりますが、親の手に負えない子供を寺に預ける、というのは、社会の慣例として普通に口にされていたように記憶しています。
実際に見聞きしたわけではありませんが、不登校児(今でこそ当たり前になりましたが、当時は許されない雰囲気がありました)を一時期寺で預かり、修行させるようなこともあったのではないでしょうか。
つまりこの50年で、日本の仏教の形骸化はさらに進んだようです。
もし今、人生に思い悩んだ大人が、仏教に救いを求めようとしてお寺を訪ねたら、住職は一体どんな対応を示すでしょう。
住職はまず最初に「あなたはうちの檀家かね?」と尋ね、当人が否定すれば、「菩提寺がきっとあるはずだから、そこに相談に行きなさい」と勧めるでしょう。
あるいは「それは私の専門じゃないから、精神科医か心理カウンセラーを訪ねなさい」とたらい回しにするかか、もっとぞんざいに「今は忙しいから、またにしてほしい」と断るかもしれません。
いずれにせよ、「自分にも家庭やほかの仕事があり、面倒なことには関わりたくない」というのが多くの住職の本音であり、仏法を広めようなどとは少しも思わないでしょう。
檀家制度の崩壊から仏教の危機が叫ばれて久しいですが、何より僧侶本人が信仰心を取り戻すことが最優先の課題かと思われます。